2010年8月1日日曜日

人が食うもの・神が喰うもの 「食べる」思想

村瀬 学著

この本、面白い。とても面白かった。一言でどんな本と言われるとなんといっていいかわからない。食文化の歴史なんて本では全くないが、カニバリズムの本というのも違う、一口サイズの問題、神と人食など独特の考えで「食べる」という視点から色々な物事を見ている。

この本を本屋で見つけて少し気なった。その日は買わずに帰った。
しばらくてまた本屋に行くとこの本がまだあった。(私の行く本屋は小さいので、見つけても次に行くとないということが結構ある)再度表紙を開いて、目次を見てこれは今買うべきだと思った。

二度目に本屋に行く時までに私は「食べること」について、多くを考えさせられる経験をしていた。一つは亀を飼いだしたこと。二つ目はザ・コーブ」という映画を見たこと。

亀は金魚の餌のような亀用の配合飼料を食べるのだが健康のためにさまざまな餌、時には生餌を食べさせた方がいい。そのような餌をインターネットで検索していると、他の爬虫類が食べる餌にも出くわす。冷凍コオロギ、冷凍マウス、冷凍ヒヨコ、冷凍モルモットまである。私が飼っていたハムスターのような小さいねずみが毛が生えたまま餌用に冷凍されきれいに並べられ袋詰めにされ販売されているのである。亀もおそらく冷凍マウスくらいは食べると思うが買う気はしない。コオロギなら買える。冷凍小魚やエビは全く問題なく扱える。この違いは何か?哺乳類だとかわいそう?

かわいそう?かわいそう?かわいそう...?

ついこないだ食べたステーキはこれらと同様に食べられることを目的に飼育されてきた牛の肉である。つまり、ステーキを食べることは、例えば蛇の餌にヒヨコを買うことと良く似ている。私の食事に牛を買うのである。全く同じとは言えないとしても、少なくとも食べられる生き物の扱いは同じである。私が牛を食べるのはかわいそうではなくて、蛇の餌にヒヨコはかわいそう?

二つ目の経験、ザ・コーブというのは飼育していたイルカの死をきっかけにイルカの保護活動を始めたイルカの調教師が和歌山県太地町で行われているイルカ漁を許可なしで撮影したドキュメンタリー映画(のようなもの)である。調教師はアメリカのテレビドラマ「わんぱくフリッパー」で一躍有名になった人。この映画はどちらかというとイルカ調教師の個人的な問題を拡大させたものに思えるのであまり詳しく触れる気はないが、一般的にいうとイルカは食べるとかわいそうなのである。牛も食べるとかわいそうなはずである。(同じように牛の屠殺風景を見たらかわいそうなはずである。)
しかし鯨肉として売られている肉の中にはイルカの肉も含まれているそうだ。とすると私も食べたことがあるかもしれない。これが著者のいう一口サイズの問題である。

生き物として形があるものの命を奪って食べることはかわいそうであっても、一度一口サイズにされてしまえば何を食べているかわからない。

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巨大なワニだって「一口サイズ」になれば「食べちゃう」存在になる。ここに「心の反転」が起こる。「姿形をしている生き物」を見ている時には、あんな動物を食べるなんでそんなひどいことはできないわ、と言いながら、いざ「一口サイズ」になってお皿の上にちょこんと乗って出てくると、「おいしそう!」という感嘆の声を上げることになる。「可哀そう」の話が「おいしそう」の半紙にすりかわる。ここに「心の反転」が怒る。それは決してその人が悪いせいではない。

ここでいう「心の反転」というか、「心がすり替わる」仕組みは、本当に悩ましい仕組みである。食べる前は、動物は大事と言いながら、でも腹が空くと他の生き物を食べるのだが、その時に、他の生き物大事さを考えることがあっても、やはり食べてしまうと「ほっと」するのである。これはいかんともしがたい生体の仕組みだ。他のいのちを大事と考える心とさっさと食べてしまってほっとする心は、実は「折り合いがつかない」し、矛盾してしまうのである。でも、その矛盾した形そのものが、そもそも「いのち」としてのあり方になっているのである。

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考えだしたらきりがない。可哀そうと食べることについてずっと考えていたら、いきあたったところは人間が捕食されないからではないかと思うようになった。もし人間が捕食される危機にさらされていたらそんなことは問題にならないと思う。淡々とそういうものだと受け止められるような気がする。地球上でおそらく捕って食われる危険にさらされていない生物というのは人間くらいじゃないだろうか?地震や洪水やハリケーンや戦争など命の危険にさらされることはあっても、捕食されるというのはまずない。他の生き物は捕って食べるけれど、捕って食べられる。

著者はこの本で一貫して何か主義主張みたいなもの説いているのではなく、淡々と事実を独自の視点で書いているように思う。そこがとてもいい。

また、人間が人間を食べる話も出てくる。人が人を食べる時にいつも神が関係すると。面白いのはアンデス山中飛行機墜落事故で食べ物がなくなり、一緒に搭乗していた亡くなった人を食べるという話。(有名な話で映画化されている)生存者の多くはカトリック信者で、救出後の記者会見で神の手に導かれ仲間を食べたと述べたらしい。その他にもアイヌの熊送り、マヤ文明の人身御供、アブラハムとイサクの献供物語など神と人を食べることについて取り上げられている。

ちなみに亀を狭いところで複数匹飼育しているとしっぽを食べてしまうというのはよくある話である。

そして絵本や童話の中からも食べるに関連した描写を見つけ書いてある。宮澤賢治のなめくぢの話はすごいとあるが、本当にすごいなと思う。

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かたつむりがやって参りました。
その頃なめくぢは林の中では一番親切といふ評判でした。(略)
「まあもう一ぺんやりませうよ。ハッハハ。よっしょ。そら。ハッハハ。」かたつむりはひどく投げつけられました。
「もう一ぺんやりませう。ハッハハ。」
「もう死にます。さよなら。」
「まあもう一ぺんやりませうよ。ハッハハ。さあ。お立ちなさい。起こしてあげませう。よっしょ。そら。ヘッヘッヘ。」かたつむりは死んでしまひました。そこで銀色のなめくぢはかたつむりをペロリと喰べてしまひました。」
(宮澤賢治全集5 ちくま文庫 一九八六)
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確かにこんな怖い文章はなかなかない。

それにしても、何がすごいかといえば私はこの著者の食べることを通してありとあらゆる世界を見ていると思わせるところである。儀式上のカニバリズムや一口サイズの問題までならばなんとなく普通だなと思うが、食べるを通して見る範囲が絵本や童話にまで及んでいる。すごい方だと思う。

私もこの著者のようにある一つの視点から様々な物事を見てみたいと思った。